〜Special〜 Fuji Rock Festivalの歩き方
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Fujiはこうして生まれた

一般的に、FUJIに来る人はロック上級者。そして30代以降が多いと言われている。
対するサマーソニックは、ロック初級〜上級者まで混在し、10代〜20代が中心と言われている。
この両者の違いは何か。
FUJIの成り立ちから、その理由に迫っていきたいと思う。



FUJI ROCK FESTIVALが初めて開催されたのは1997年。


文字通り、富士天神山スキー場での開催だった。
興行をとり仕切るのはSMASH
外タレといえばUDOという時代に、若年層向けロックアーティストを引っ張ってくるSMASHは新興勢力に過ぎなかった。
さらに言えば、この時は、サマーソニックを主催することになるクリエイティブマンはもっと小規模な存在で
FUJI開催に共同で協力していたらしい。

FUJIのファンの間ではお馴染みの、SMASH代表、日高さん。
みんなからは「大将」と呼ばれている。
(一部2ちゃんでは「帽子」※FUJIでの麦わら帽子がお馴染みのため)

当時、この催しは、画期的な野外フェスティバルとして案内されていた。

そして、1997.7.26 ヘッドライナーにレッチリを迎え、イエモン、レイジ、フーファイ、ハイロウズ…
もう一つのステージではエイフェックスツインや電気グルーヴ。
日本のロックフェスティバルの幕開けび相応しい、素晴らしいラインナップの初日。

しかし、待ち受けていたのは「台風」。降りしきる雨と風。「嵐のFUJI ROCK」として今なお伝説として語り継がれている。

そこで露呈されたのは、あまりに未熟だった主催者と参加者。
来場者の為の設備の不足やゴミの問題。そして、風雨をナメていた軽装の参加者。
そこはまさしく野戦病院の如くと化し、行くあてのない来場者はステージに設けられた避難所に誘導された。

翌日は台風が去ったものの、ボロボロのステージと、初日で疲れ果てた参加者。
そこにフレッシュな二日目からの参加者が重なれば、大惨事になるかもしれない。
海外のスタッフからは「こんなの大したことないよ、ボクらの国じゃよくあることさ」と言われたものの、
生まれたばかりの日本のフェスは、彼らの国のように成熟などしていなかったのである。

大将の下した決断は、二日目のキャンセル。
BECK、グリーンデイ、ウィーザー、シーホーゼス(ジョンスクワイア)、プロディジー、マッシブアタック、布袋…
これらのアーティストは演奏を行わず帰路に着いた。

国内の新聞では悲惨な状況が過剰にクローズアップした書かれ方で報道され、
音楽誌は必至に盛り上げようと「あれは伝説だった」と書きたてた。

誰もが、翌年の開催を危ぶんでいた。




そして、98年。東京の埋立地、豊洲で第二回のFUJI ROCKが開催された。


大将の97年のキャンセル謝罪から始まった98年は興行的には大成功だった。
天候にも恵まれ、初日はソニックユース、キヨシロー、エルビスコステロ、Beck、ビョーク、
裏(隣のステージ)ではイギーが叫びまくり、
二日目もKORN、布袋、イアンブラウン、プライマル、プロディジー、KEMURIGOLDIEADF、ジャンキーXL
超豪華ラインナップで見事に走りきった。
問題点と言えば、メインとサブのステージ間の近さによる音響問題くらいだった。

恐らく、この年のフェスの形態が、00年の第一回サマーソニックへと繋がっていったことは言うまでもない。

『…大成功だ。これでいいじゃないか』
この時にそう思わなかったのは大将だけだったかも知れない。




99年、FUJIは苗場スキー場に場所を移す。


嵐の97年を記憶している人々は眉を潜め、湯沢町の反応も嫌疑的なものだった。

イギリスのグラストンベリーフェスティバルを知っている人は、
この会場に来て、大将が目指しているものがそれだと気づいたかもしれないが、
日本のロックファンには、そんなフェスを体感する機会も無く、戸惑っただけかもしれない。

何故、遠い田舎町で?しかも三日間?そんな疑問が噴出したことだろう。
サマソニしか知らない人たちは、いまだにそう思っている人たちもいるかもしれない。

ステージは3つに増え、初日はハイスタ、レイジ、奥田民生、アンダーワールドが共演し
二日目はスカパラ、リンプ、ケミブラ、ブラー、ジョンスペ。
三日目にはキヨシロー、ASH、ハッピーマンデーズ、オーシャンカラーシーンがステージに立った。

大自然の中での音楽祭。
それは「アレもコレも見なくちゃ」という焦りからも開放してくれる。
事実、FUJIの参加者は、サマソニに比べ、アーティストへの執着より、フェス自体への執着で参加している気がする。
雨が降れば、幻想的な霧が出て、一つの演出にしてくれる。
エコ意識への目覚めなど、苗場でのFUJIは、初めて日本が体感する、本当の祝祭であった。





00年、クリエイティブマン主催のサマーソニックが開催され、
それは98年のFUJIを参考にした形式で、誰もが参加しやすいフェスとして、特に若い世代に受け入れられた。


時間的、予算的な制約の大きい若年層には、サマーソニックは非常に素晴らしいフェスティバルであるように思う。

ただ、これによってアーティストの食いあいが起こったのも事実。
お互いが抱えるアーティストが相互参加できないわけではないが、同時出演はまずあり得ない。
「今年はあちらのフェスに貸し出し」のイメージが残る。

もう一つの課題である参加者(客層)の棲み分けは、数年後に顕著になるが、
いわゆる若い世代も参加しやすく、旬のアーティストを連れてくるサマソニと、
安定して実力のあるアーティストを特別な空間で見せてくれるFUJI ROCKという風潮は、この頃からあった。

この年に関して言えば、サマソニが未成熟だったこともあり、アーティストはFUJIに集められるはずだった。
しかし、三日間での大物がエリオットスミス、フーファイ、ケミブラ、ブランキー、ADF、プライマル、イアンブラウン
ミッシェル、ランDMC、モグワイ、モービー、電気グルーヴ…少々地味だったことは否めない。

4つに拡大したステージで、来場者は例年よりも落ち込みを見せた。
しかし、だからこそ、FUJIはこの年に本当の意味でFUJIになったと思う。
ところどころで出会う見知らぬアーティストが見せる奇跡、アウトドア装備の普及や知恵、
ゆったりした空間で聞ける、ネームバリューにとらわれない一流の音楽。

クラッシュの故ジョーストラマーは、クリーンな会場に、素晴らしい雰囲気を持ったFUJIをこよなく愛し、
「グラストはゴミだらけ。英国人として恥ずかしくなるよ。その点、フジは素晴らしい」と、
当初、目標にしていたフェスを、すでに越えたともとらえられる発言を残してくれた。

地元、湯沢町の人々も、予想以上の経済的な効果に加え、礼儀正しくエコ意識の高い来場者を歓迎するようになった。





01年には鬱憤を晴らすかのように、最強のラインアップと称される豪華ラインナップで、世界に名を知らしめることになる。


この年はグラストが開催されなかったこともあるが、この年の成功が、サマーソニックへの相乗効果、
日本でのフェス乱立へと繋がることにもなる。

初日はADF、トラヴィス、マニックス、オアシスが立ち並び、
二日目にはニールヤング、アラニスモリセット、パティ・スミス、ステレオフォニックス、モグワイ、ニューオーダー(&スマパン)、
最終日は日本初上陸となる絶頂期のエミネムのLIVEである。
国内組もそうそうたるメンバーだが、もはや割愛せざるをえない程だ。

余談になるが、くるりは97年のFUJIでバンドの結成を志し、年々、ステージを大きくする形でバンドが成長していった。
こういったバンド達が「いつかはFUJIで」思うところも、実力重視のFUJIの特徴の一つである。




  
こうして成熟していったFUJIが次の転換期を迎えるのは04年のことになる。


03年に起こった日本でのフェスバブルを契機に、これまで以上に「棲み分け」を意識するようになった。
サマソニ03がレディオヘッドのLIVEで、FUJIから国内No1の座を奪わんかの如くに見えたのかもしれない。

FUJIは、未だに賛否両論残る「三日券のみ」の販売を打ち出した。

当然の如く金曜日に参加できない社会人や、予算的な問題のある学生から不満が続出。
「祝祭感の押し売り」と非難されてしまう。
それでも、この時の大将の求めた「本当のFUJI ROCK」は、
個人的に三日間参加が当然のようになった今なら、分かる気がする。

結局、翌年からこの制度は廃止になったわけだけど、大将は「またやりたい」とやる気まんまん。
多くの人々を戦々恐々とさせている。

こんな大将だからいつドラスティックな変更があるか、中止になってしまうか分からない。
事実、05年は開催場所の変更案が出されていたらしい。
しかし、これに待ったをかけたのが「新潟県中越沖地震」。
本来なら、「地震があったから変更」なのだが、「地震があったから絶対継続」になったわけだ。

それは大将の、FUJIを受け入れ、育ててくれた苗場への恩返しのように思えて他ならない。
なんせ、今のFUJIROCK会場は、当時の苗場テニス場とゴルフ場をぶっ壊してまで作ったステージ。
詳しい説明もままならない状態でフェスを迎えた地元観光業界。
変えることの大切さ、変えないことの大切さ、それを教えてくれるのもFUJI ROCKなのである。




   

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